限界苦学生生存報告書

生きながら学費に焼かれ

実家から逃げ出して進学し7年が経った

はじめに

 これはわたしが実家から逃げ出し学位取得を目指した7年間の記録です。あらかじめ断っておきますが、格差の是正や高等教育の漸進的無償化といった崇高な目的のために書かれた文章ではありません。わたしの生活史に資料的価値があると考えるほど思い上がってもいません。平凡な18歳が親の援助なしで自立した場合のありふれた経過について書かれていると思っています。ではなぜこんな文章を書き公開しようと思ったかと言えば、ひとえに承認欲求を満たしたいからです。実を言うと、年々強まる自己責任論へのある種のカウンターになればとも(ほんの少しだけ)思っていますが、こういうことは言わない方がよさそうなので言わないでおきます。

 

中学卒業から大学入学まで

叔父は文字だ。文字通り。

円城塔,2014,「これはペンです」,『これはペンです』,新潮社.)

 

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

  • 作者:円城 塔
  • 発売日: 2014/02/28
  • メディア: 文庫
 

 物心ついた時には家庭が終わってしまっていたので、自立することにした。中学を卒業してすぐに働きだした。お金が必要だった。お金がなくては安全も尊厳も学習の機会も手に入らないと学んでいた。3年間いちども遊ばずに預金にいそしんだ。被服費が惜しくて、休みの日でもファーストフード店の制服で過ごしていた。金銭への執着と職場への献身ぶりは傍から見れば滑稽に映っただろうが、当時はそんなことを考える暇もないくらい必死だった。2年半で250万円貯め、高等学校卒業程度認定試験に合格した。4か月前からは仕事も辞め、受験勉強に専念した。入学金免除等の特待生制度を狙って志望校を1ランク落とした。第2志望に引っかかった。特待生にはなれなかった。

 自立に向けて準備を始めた。民法の規定により未成年者は親の同意なしに契約をおこなえない。しかし、生きていくために住所と電話番号とインターネット回線と保証人が必要だった。健康保険証をコンビニのスキャナにかけた。わざと粗く取り込んだ画像の生年月日を████で██して、2台の携帯電話とインターネット回線を手に入れた。伯父の名義で新宿に私設私書箱を借りた。いまはめっきり減ったが、当時は本人確認もろくにしない胡乱な私書箱ターミナル駅の近くにいくつもあった。まともな不動産屋には門前払いされた。わたしが不動産屋でもそうしだろう。マイソクから盗み見た管理会社を訪ね、管理会社から聞き出した大家を訪ねた。敷金を3か月分納めることで、大家から直接アパートを借りることができた。

 不在の伯父に名前・生年月日・住所・電話番号が与えられた。間違ったことだとわかっていたが躊躇はしなかった。ほかに選択肢がなかった。伯父を保証人にして大学に入学した。

 

大学生活

罫線の入っている紙一束、鉛筆二本、厚みのある大きなノート一冊を選ぶ。それらをまとめて、勘定台の向こう側にでんと構えているおじさんの真ん前に置く。ぼくらが言う。

「ぼくたち、これだけ全部要るんですが、お金はないんです」

アゴタ・クリストフ,2001,『悪童日記堀茂樹訳,早川書店.)

 

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

 

1年目

 入学式の後に最初のガイダンスがあった。スーツは当然買えなかったので、ジーンズとパーカーでガイダンスだけ出たら、私服で出席しているのは自分だけだった。なるほどと思った。大学での勉強は新鮮で楽しかったが、常に金策に追われていた。学費・家賃・生活費で月に18万円ほど必要だった。国民健康保険の保険料や職場への交通費を含めると20万円は稼ぎたかった。生活し大学に通うために必要な収入が、大卒初任給と同等なのは皮肉だと思った。コンビニとパチンコ店とホテルの配膳の仕事を掛け持ちしていた。立ち仕事の掛け持ちは足にきた。眠っていると足が攣り、一晩に何度も目を覚ました。貧血を起こして座り込んでしまうこともあった。食費を限界まで削っていたので、体が弱っていたのかもしれない。8月からは夜勤の事務の仕事を見つけ、そちらに専念することにした。しかし夜勤の体力的な負担は大きく、出席率はさらに低下した。夜勤明けの電車でどうしても起きられず、寝過ごしてしまうのが悔しかった。受給できる奨学金を探すため、学生生活課に頻繁に通っていた。もとより期待していなかったが、やはり日本学生支援機構奨学金は受給できなかった。奨学金の申請には両親の源泉徴収票が必要だった。両親がとうに養育を放棄していても、独立して生計を営み授業料を自分の収入から捻出していても、ルールは厳格に適用されていた。そこで民間の奨学金を探したが、保護者を連帯保証人に立てなくてはいけないものばかりだった。未成年で独立生計の学生が受給できる奨学金は存在しなかった。以前からあったうつっ気が冬ごろから強くなり、『電車にGO!』『海の底にも大学はございましょう』『死ねば授業料もかからない』『死はコスパがいい』などの正気とは思えないフレーズが脳裏に絶えずチラつくことになる。いま思えばすでに正気ではなかった。

修得単位は前期11、後期2。

 

2年目

 生活苦・疲労・学業不振・将来不安などがちゃんぽんになり、真剣に自殺を検討するようになってくる。6月からは住民税が発生し経済状況がさらに悪化した。7月、所用で新宿に出かけていた時、甲州街道のあたりで突然決心がついた。鶴見斉『完全自殺マニュアル』を参考にしながら、新宿中のドラッグストアをはしごし致死量の3倍のジフェンヒドラミン買い集め、アーリータイムズ茶で飲み干した。大変遺憾ながら死にそびれ、いまもこうして生き恥をさらしている。数日後ICUのベッドで目を覚ましたら、大の字に拘束されていて青くなり、入院費のことを考えて真っ青になった。腎臓と白血球の数値がアレだったが、無理を言って自主退院させてもらった。死より出費が怖かった。国立国際医療研究センター病院救急救命センターのみなさま、大変ご迷惑をおかけしました。それまで自殺には決意や勇気が必要だと思っていたが、実際やってみるとそんなものは必要なかった。精神はすでに死んでいて、体を精神の側に合わせる、あるべき状態に戻すような感覚だった。

 体は(不本意ながら)助かったものの財布は無事では済まず、入院費の支払いで学費が吹き飛んでしまった。限界まで滞納したが、結局学費を納められず退学処分になった。『死んでおけばよかった』『なんでもう倍飲まなかったんだ』などの振り返りが発生したが、そうも言っていられないので知人が経営する飲食店で副業をすることにした。本業を週40時間、副業を週20~30時間やっていたと思う。金はもりもり貯まったが精神はゴリゴリ削れていった。3月に復学のための面接試験を受け合格。

修得単位は前期0(遡及退学)後期0(学籍なし)

 

3年目

 復学したが状況は変わらなかった。仕事を続けるだけで精一杯で、とても勉強ができる状況ではなかった。しかしそうなってもなお「いちど休む」という選択ができなかった。自分を追い立てる以外の努力の仕方を知らなかったので、一度休んでしまったら二度と努力できなくなる気がして恐ろしかった。相談や履修状況を共有できる友人もいなかった。友人付き合いや会食は無駄だと考え、それらを徹底的に排除することが良い結果に繋がると思い込んでいた。家計に余裕がなかったのは事実だが、そもそも交際費という費目が存在しなかったし、捻出する努力もしていなかった。

 後期から日本学生支援機構奨学金を受給できることになった。まさに青天の霹靂といった気がし、はじめはメールを送り間違えを疑ったくらいだった。学生の独立生計が認められるよう、学生支援センター長のI教授が学内の規則を変更してくれていた。I教授には感謝してもし切れない。しかし受給には時間がかかった。9月からの採用だったが振り込まれたのはテスト直前の1月半ばだった。成績不振はわたしの無能と怠惰によるものであり一切言い訳をするつもりはないが、もう少し早く受け取れていればと思わずにはいられない。

修得単位は前期0、後期0。

 

4年目

 うつの症状は確実に悪くなっていた。部屋はゴミだらけになり、公共料金を滞納したせいで電気やガスが何度も止まった。散発的に精神科を受診するが医療費をかけるだけの価値を自身に見出すことができず、なんども自己判断で診察を中断していた。目が覚めるとコンビニに行って酒を買い込み、泣きながら飲み干して気絶するように眠り、仕事の日は大量の飲水と熱い風呂でアルコールを抜いて出勤していた。仕事がなければ自殺していたと思う。『働かないといけない。他人に迷惑をかけてはいけない』という気持ちで踏みとどまっていた。

 解離性遁走を起こしたのもこの年で、気が付くと金沢のホテルの一室にいて、一週間が経っていた。もともと解離気味なことは自覚したが、ここまで派手にやらかしたのは初めてだった。

 9月になると「単位の修得状況について」という手紙が教務課から届いた。通っている大学では4セメスター連続で習得単位が10を下回ると、修了の見込みなしとして退学処分になる決まりだった。大学からの最後通牒だった。まともな思考力の持ち主だったらここで休学して体調を整えるのだろうが、当時のわたしは『後期10単位取れば大学に居続けられるじゃん!』という絶望的な考えに基づき行動してしまった。あえなく出席数が死んでしまい、12月末から休学。

 2月、泥酔し半液状になって床に転がっていると大家が訪ねてきた。

「3月いっぱいで出て行ってもらうからね」

 賃貸の契約更新を何度も遅滞した結果だった。義務感と失業の恐怖でなんとか仕事はできるのだが、プライベートのこととなると書類を一枚書いて大家のもとに持っていくことさえできなくなっていた。寛大な大家は1か月超の猶予を設けてくれた。その間に新しい部屋を見つけ、そこに移ることもできた(事実、契約直前まで行った)のだが、自暴自棄と自罰感情が邪魔をしてどうしてもできなかった。自分をもっと苦しめなければいけないと感じていたし、野垂れ死ぬならそれでもいいと思っていた。私物は少なかったが、すべて捨てるか売ってしまった。3月31日、4年間過ごした部屋を引き払う。

修得単位は前期0、後期0(休学)。

 

5年目

 ホームレス状態になった。日中は大学内の図書館や倉庫やシャワールームで、夜は公園かネットカフェで眠っていた。眠って過ごす時間が増えたが、常に泥のような疲労感に悩まされた。足を伸ばして横になることができないと、人間はこんなにも消耗するのかと思った。自殺願望は変わらずにあったが、もはや具体的なアクションをとるだけの元気がなかった。

 ある日、いつも通り80cm×80cmのシャワールームの床に丸まって休んでいると、学生生活課の職員が訪ねてきた。『構内で寝泊まりしている浮浪者がいる』と、学生の間で噂になっていたらしい。知らないところで都市伝説になりかけていた。訪ねてきた職員2人は入学当初から奨学金探しに奔走してくれた恩人で、アパートを失ったこと、ネットカフェや公園で寝泊まりしていることなども洗いざらい打ち明けることができた。彼らは仮眠を取れるよう空き教室を都合し、そればかりか新居を探す手伝いまで申し出てくれた。嬉しかった反面、多くの人の厚意や援助を無下にし自暴自棄になっていた自分のことがとても恥ずかしくなった。学生生活課が緊急時連絡先を引き受けてくれ、新しいアパートに入居できることになった。10月半ばのことだった。

 否が応でも変化しなければいけなかった。当時のわたしの考え方の大部分は実家での経験で作られていたが、これに問題があることは明白だった。しかし18年間かけて醸成され、その後4年半かけて強化された考え方を変えるのは困難で、また苦痛が伴った。それは身体的・経済的な自由を手に入れても、精神はいまなお両親の支配下にあることを認めることに他ならなかった。『かくあるべし』という作られた規範に逆らおうとしても、それに代わるものがないのだ。自由にものを考えることができなかったので、自由にものを考える人を想像する必要があった。思えばこれは実家を出てすぐに行っておくべき作業だったのだろう。しかし実際は大学と仕事に追われ、それどころではなかった。時間ができてからも、過去や両親から意図的に目を背け続けていた。皮肉なことに大学を休学し一度家を失ってようやく、内省するための時間と動機を得ることができた。

修得単位は前期0(休学)、後期0(休学)。

 

6年目

 旧来の考え方と新しく表出してきた考え方とがせめぎ合っていた。かろうじて欲(のようなもの)が出てきたが、『贅沢してはいけない』『苦労しないといけない』という声に押しつぶされる、ということを延々とやっており、具体的には中古の冷蔵庫を買う決心をするのに6か月を要した。お金を使うことへの罪悪感が特に根深かった。ストレスからか酒量がさらに増えた。過去から自由になれない情けなさと絶望感で胸のあたりが重かった。当時の家は線路沿いに建っていて、夜中ふらふらと線路に立ち入り警笛を鳴らされて線路脇に飛び退く、みたいなことを毎週やっていた。申し訳ありません。

 すでに休学期間は2年に及んでおり、焦る気持ちもあって後期から復学した。2週間後、天気が良かったので重力に身を任せてみたい気分になり、3階から飛んだところ右腓骨を骨折。全治8週間人生一回休み。仕事は休めないので松葉づえ両手にガチャガチャ働いていたが、体力的にかなりハードなことになってしまい、大学と両立することができなかった。1セメスターを棒に振ることになり、およそあらゆる方面から怒られた。本当に申し訳ありません。また、詳細は差し控えるが、日本学生支援機構奨学金の受給資格を失うことになった。いろいろなことがありました。察してください。

 象徴的な出来事としては冬に布団を購入した。あまり信じてもらえないのだが、それまでは床にそのまま寝ていた。冬は毛布を体に巻き付けて、やはり床で寝ていた。このあたりからセルフネグレクト癖がすこしずつ緩和していく。

修得単位は前期0(休学)、後期0。

 

7年目

 (ようやく)実質的に復学した。経験から努力や根性では問題は解決しないだろうと考え、努めて実利的に行動した。就労と通学の両立には体力の充実が不可欠だと考え、食費を大幅に増やした。24時間のスケジュール管理を行い、不規則な生活の中でも1日あたり7時間の睡眠をとるようにした。余暇や娯楽のための時間とお金を意図的に確保した。それまで罪悪感があって使えなかった冷暖房を使うようにした。生活が楽になると思った物や習慣は可能なかぎり採り入れた。7月からは大学に近い場所に引っ越し、より効率的に暮らせるようにした。楽をするためには苦労を厭わなかった。

 すべてがうまくいったわけではない。特に前期の成績はひどかったし、落としてしまった単位もあった。学期中に目論んだとおりの学習時間を確保することもできなかった。酒に逃げることもあった。しかしながら、この7年間で間違いなく最良の年だった。月180時間の仕事と週5日の大学を1年間両立することができた。いずれ来る就活のため、わずかだが貯えを作ることができた。年下の友人ができた。腕も足も折れなかった。

修得単位は前期17、後期27。

 

1年目~5年目

 挿入する適切なタイミングが見つけられず書いていなかったが、数回に分けて実家に計500万円の送金を行った。

 

あなたの人生の反省会

このお話の結末がどんなふうになるかはわかってる。そのことはよくよく考えているから。

テッド・チャン,2013,「あなたの人生の物語」,公手成幸訳,『あなたの人生の物語』,早川書店.)

 
あなたの人生の物語

あなたの人生の物語

 

 

 いま思えばあまりに容易いことが、過去のある時点ではどうしてもできなかった、ということはしばしばある。これから両親をぶっちぎって進学するぞ、という後進(そんな後進いないに越したことはないですが、もしもいるなら幸運を祈っています)のため、あるいは悪戦苦闘していた過去の自分の弔いのため、いま考える反省点を挙げていこうと思う。

  •  逃げ出した後の人生のことを考えていなかった

さっそく本質的な反省です。実家から逃げ出すことが人生の目標でありゴールだったのはまずかった。それは幼少期からわたしの心の支えであり続けたが、その後のことを一切考えていなかった。だから自立すると、これからなにを目指して生きていけばいいのかわからなくなった。逃げ出した後の人生で、やりたいこともなりたいものもなかった。まるで余生のように感じた。

 苦しみの最中にある人に、苦しみが過ぎ去った後の人生について考えさせるのは酷なのかもしれない。彼にできるのは苦しみをやり過ごし、逃れようともがくことだけなのかもしれない。でももしわずかでも余裕があるなら、その後の人生について考えるべきだと思う。それは心を支える2本目の柱になるのみならず、燃え尽きを緩和してくれるだろうから。

  • 怒りを原動力にすべきでなかった

 実家から逃げるという人生の目標を達成した後、およそあらゆる動機を喪失したわたしは、両親への怒りを原動力に生きていこうとした。これも失敗だった。モチベーションを火にたとえるなら、怒りという燃料は最大瞬間火力が大きいがあっという間に燃え尽きる松葉のようなものだ。もう会わなくなった人物への憎悪は長続きしない。怒りしか燃えるものがないのなら、それが残っているうちに他の燃料を探すべきだった。

  • 努力の意味を取り違えていた

 紆余曲折を経て考えを改めることになったが、大学入学当初は努力と自罰を深刻に混同していた。罰し苦しめることが自己の成長につながると考え行動していた。しかしことごとく上手くいかなかった。心を病み路上で暮らすようになってようやく間違いだと認めることができたが、自罰がなんの役にも立たないことはずっと前から気付いていた。しかし変えられない習慣だった。しかるべき専門家の支援を求めるべきだった。

 今では「努力は能力を育み最大化すること」だと考えている。明日いい気分で仕事に出かけるためのおこないなら、適切な医療を受けることも、美味しい食事を摂ることも、ぐっすり眠ることも努力なのだ。

  • 交際費は浪費ではなかった

 実家を離れてから特に矯正に手間取ったもののひとつが交際費まわりの金銭感覚だ。というかいまも矯正している最中だ。経済的ネグレクトのなかで育ち、中学卒業後は500g80円のトルコ製スパゲティを主食にして預金に励んだわたしは、遊びにお金を使うことができなくなっていた。『飲み会なんてけしからん!犀の角のようにただ独り学べ!』と本気で思っていた。聖人ならともかく凡人がそんな生活に耐えられるはずがないのだ。むしろ困難な状況にあるからこそ、友人たちと関わり語り合うことで英気を養うべきだったのだ。もっと早くこのことに気づいていれば築けていたはずの人間関係のことを考えると、悔やんでも悔やみきれない

  • 親に金を返すのはやめておくべきだった

 親に返した500万円のことを話すと大抵驚かれる。もっと直截に「そんなことしなくてもよかった」「返してもらえばいい」と言われることもある。彼らの言うことはきっと正しい。わたしは自分が生まれたことによって家計に発生した費用について悩み続けてきた。そしてお金を返すことによってでしか、それを解消することができなかった。これについては現在進行形で取り組んでいる問題なので、これ以上のことは言えない。進捗があったら別の記事にするつもりだ。でも同じ悩みを抱えている人へはこう伝える。親に金を返すのはやめとけ。

 

おわりに

傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。

宮地尚子,2010『傷を愛せるか』,大月書店)

 

傷を愛せるか

傷を愛せるか

  • 作者:宮地 尚子
  • 発売日: 2010/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

7年間を振り返って

 偶然うまくいった、としか言えない。もしも部屋を借りられなかったら、仕事を見つけられなかったら、ホームレス状態から抜け出せなかったら、大学に通い続けることはできなかっただろう。もちろん努力はした。大学に入るためにも、在籍し続けるためにも様々な努力をしたが、そんな努力は現状を構成するほんの小さなピースに過ぎず、多くのものを偶然や幸運、そして周囲の理解と援助に負っている。だから家庭環境が理由で高等教育にアクセスできなかった人たちに対して「それはお前の努力が足りなかったからだ」と言うことは絶対にできない。いま虐待を受けている中高生(という言葉はあまり好きじゃない。高校に通わずに働いている人だっているのに)に対して「わたしのようにすれば大学に行けるぞ。だから頑張れ」と言うことも絶対にできない。努力と苦労は峻別されるべきであり、努力は称えられるべきだが苦労は少しずつでも取り除いていくべきだと思う。

 

日本の奨学金制度は被虐待者への配慮を欠いていないか

 日本の奨学金制度は善良で協力的な親権者の存在を前提に設計されている。だから親権者が明確な意思をもって子から教育を取り上げようとすると、途端に役に立たなくなる。日本学生支援機構のハンドブックを読むと『さぞ育ちのいい人たちが考えたんだろうな』と心が温まるが、育ちの悪い身からするとたまったものではない。それはあなたたちにとって都合の悪い事実なのかもしれないが、そんな事情とは関係なく、虐待を受けながら教育を求める若者は現に存在している。仮にも日本学生支援機構を名乗り続けるのなら(貸与型奨学金は形容矛盾であり存在しえないのではないかという批判はさておき)、被虐待者がそうでない人たちと同じように奨学金を受給できる制度を設けるべきだろう。

 

今後について

 春からも、8年目になる大学に通う。今年度のような幸運がこれからも続く保証はない。来年の今頃は依存症治療の病棟にいるかもしれないし、ぐちゃぐちゃになって西武池袋線の枕木にこびりついてるかもしれない。それでも這うように進んでいくほかないのだ。金があればと思わない日はないが、一方で自分自身に教育を施すことを楽しんでもいる。2022年3月の卒業を目指している。